交通事故編  斡旋から示談まで PART2

~正直過ぎの医師たち~

このたびの事故は、幸い…と言ってよいのかどうか悩みどころだが、怪我といっても流血した訳ではなく、入院・手術を経てなお通常の生活にまったく戻れないというタイプのものでもなかった。

(そりゃ、幸いと捉えなきゃあきまへんで~。)

そうだ。この程度で済んでいることを感謝しなければならないのは言うまでもない。しかし、なかなか厄介な症状が出たのだ。

いわゆるムチ打ち

そうだ。俗に言うムチ打ち

事故の中でも突出して症状の多い別名「頚椎症」

そして、レントゲンには写らない手足腰首頭の痛み。

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いつものアレ

概してこうした症状は希少価値が低いゆえ、病院では

「いつものアレね」

という、まるで行きつけのラーメン屋の店主に注文するかのような軽いノリでスルーされざるを得ない悲しい症状だ。

なぜここまでムチ打ちが軽んじられているのだろうか?考えてみれば、多くの症状の中でもとりわけ差別的な扱いを受けている感は否めない。

○○保険の規約を見ても「頚椎症は除く」という但し書きを何度目にしたことか。それらを見ると「そんなにムチ打ちって罪なんですか~」と叫びたい衝動に駆られる。

(誰も罪とは言っとらんで~)

勿論想像はできる。恐らく今のハイテク機器を駆使したとしても、はっきりと画像やテストで認識できない分野だからであろう。この分野における医学の進歩を心より願ってやまない。

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医師の反応

よって先述した病院の反応も無理もなかろう。毎日のようにやってくる交通事故患者。しかも自力で来院できるような軽症患者ともなれば

大丈夫 大丈夫 心配無用!全然問題なーしっ!!

って、そこまでお客を…いやいや、患者を逃がすような事はあえて口にはすまい。

ただ、残念ながら言葉にして言わないまでも……どうしても表情と態度で物語ってしまう、嘘のつけない正直者のドクターが少なからず存在するのだ。

今回のドクターの反応はいかに?!

幸い、この度担当のドクターは、眉間にしわを寄せ、

「大変でしたねー」と、一般的な人であれば大抵はするであろう(…と期待したい)反応。これは、日々重篤な患者も診察治療しなければならない医師達の中では、かなり秀逸なリアクション。(だと思うのは自分だけだろうか・・・)

(いやいや、よくできた先生やろな。)

その後、共に診察を受けていた同乗者、つまり被害者仲間でもある身内(70代 女性)が、「タブレット」で、事故の状況の画像をドクターに見せたところ、

えぇーっ!?

診察室内がどよめいた。

一体、何がそのような反応をさせたのか?

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交通事故 斡旋から示談まで ☆PART1

~十人十色~

なんでも…交通事故も、“まずは自分で”やってみるって?

いやいや、それではただの当たり屋だ。。。

そんな積極的な交通事故の起こし方をここで綴るとしたら、犯罪教唆で訴えられてしまう。それを、「病みサイト」と言うのだろうか。

(あっ、「病み」じゃなくって「闇」だった。まっ、どっちも似たようなものか?)

話は逸れたが、要するにわたしの言いたいことは、願わずして交通事故に遭った時…

(って、やはり願っとることもあるんかい?)

とあらぬ嫌疑をかけられそうだが

…改めて強調しよう。

ある日突然こちらが悪くもないのに、交通事故に見舞われてしまった悲劇に立ち向かうにはどうしたらよいのか?!

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とりわけ、自分の気持ちは「絶対100:0でしょ!!」という状況にもかかわらず、相手の保険屋に「90:10」と言い切られてしまった時のどうにもやるせない思い。

そんな悩みを抱えている方々に、わたし自身の体験を通して、参考までに耳寄り情報(示談までの軌跡)をお伝えし、少しでも役に立ててもらえればと願ってやまないからだ。

(きっと役に…多分役に……恐らく役に………立つことだろう。)

(って、そこまで自信ないんかい!) と突っ込まれそうだが、やはり過剰な期待は禁物なので。

よくあるではないか。「美味しいよ~、これっ」と言って勧められたフルーツを期待して食べたら「あれっ???」という経験。

そうだ。そのように感じてしまうのは、人間は得たプラスの情報に基づき、過剰な期待を寄せてしまうからではないだろうか?

あたかもSNSにアップされた加工済みのプロフィール写真のように。。。

そしてその後、突如として現実に目を覚まされる。。。

(って、失敬なっ!いらんお世話や!!ほっといて。)

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人生のヒント

ということで、前書きが長くなったが、要するに人の状況は十人十色。まして交通事故ともなれば、人口の数だけ色があるものだ。

それでも、参考情報を求めてネット上を彷徨い歩いた結果、似たような状況を経験した人のサイトにたどり着き、「なるほど、なるほど。あーっ、そうそう!」と痒いところに手が届いた瞬間に、その情報源に心から感謝の意を表したくなるものだ。

世のため、人のため、誠実に情報を提供している人が見つかれば、それ以降の対処方法に大きな違いがでてくる。結局、自分の色とは若干違ってもよいのだ。ヒントは必ずどこかに落ちているはずだ。いや、落ちていると信じたい。それを見つけられるかどうかは、探し続けるかどうかにかかっている。

Keep on seeking,and you will find!!

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ブログについて

現代社会において、メディアが発達し様々な情報が簡単に手に入れられるようになった。

以前は、どうだったであろうか?―必要な情報があれば、図書館で関係した本を物色したり、本屋で立ち読みしたり(勿論、必要であれば購入もした)、経験者を探して尋ねたり…とその方法は多岐に亘った。そのためにかかる時間と費用と気力・体力は膨大なもので、今では遠い「いにしへ」の記憶だ。

現在のこの急激な変化に関して言うならば、ある意味、SFの近未来都市が実現したかのような錯覚にすら陥る。2―3歳の子どもでもスマホを見事に操り、自分の見たい動画やゲームにアクセスできる。その習得速度は、言語よりもさらに早いことも多々あるのではなかろうか?

それはそれで「デジタル認知症」とも呼ばれるある種の依存症につながる危険もあり、今後、利便性とその危険は背中合わせであることも意識して用いなければならなくなっていくであろう。

自分個人としては、情報に翻弄される危険を感じる事がある。名前も顔も知らない人物の書いた情報であっても、自分が必要としているもの、自分が興味深いと思えることであると、つい信じてしまいたくなるものだ。実際、ネット上に氾濫している情報のどれだけが真実であるのかは知る術もない。各自できることは、自分自身で判断する力をつけること。

Cautious as 蛇 and yet Innoccent as 鳩.

純真すぎてなんでも信じてしまうのも、用心深すぎて何も信じないというのも、どちらもバランスが欠けているということだ。

自分は、どれほど都合が悪くても嘘をつかないよう教え込まれ、常に正直であることをモットーに生きてきた。用心深さを自負しつつも、人に騙されたことも少なからずあった。だが、そうした苦い経験も後に役に立つこともあろう。

ということで、今まで自己判断で信じて大丈夫と判断した上で活用して役立った情報や信じて失敗した情報、また自分で体験して後世に伝えるべきと感じた情報等をここで綴っていこうと感じた。