コウケントー光線治療の由来 その2

太陽光線治療器

いろいろな症例はこちらから!!

前述のフィンゼン灯は、カーボンを用いて光を作るものだったが、黒田氏が最初に知ったのは、東や南側の窓から太陽光線をレンズで採光して患者に当てるというタイプのものだった。

東大の著名な医師にも見放された知人が、この装置で1日1回10分を2ヵ月間で40回(雨と曇りの日は休み)照射して元気に電車で通院できるまでになったことを知り、その治療に興味を持ったのがきっかけである。

彼は実際に治療所を訪ね、特許として澤田暁夢氏によって発明されていた太陽光線治療器を見させてもらった。

—余談であるがこの澤田氏、大正13年に光線にまつわる本も出版している。

陽太ルナ妙霊

出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 

何の呪文かと思ったら、

「妙霊なる太陽の力」というタイトルだった。さすが、大正時代。右から読むのだった…

この中にも太陽の光がどれほど人間の健康に重要なのかが綴られていて、興味深かった。(国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。こちらから  Amazonでは古本が10,000円で売っていた…)

なお、黒田氏の訪ねた治療所を開いていたのは、光線治療に救われた患者本人で、社会奉仕として、多い日には50名ほどの患者の治療にあたっていた。

(えらい、ええお人やね~)

また同様の治療所が全国に120か所もあったことにも黒田氏は驚きを覚えたそうだ。

[ad#ad2]

 自分も試す

身内に、不治の病—脊髄癆で苦しんでいた甥がいたため、早速治療を開始。1か月ほどで症状が良くなったので、治療器(晴れの日のみのタイプ)を入手して自宅治療へと切り替えた。目に見えて回復したため近所でも評判となり、最初は懇意にしている人、そして次々と口コミで患者さんが押し寄せることに。

この頃、昼夜いつでも使える治療器ができたとの知らせが入った。

黒田氏は不思議なほどあらゆる患者に効果のあった治療器を、なぜ大学病院のようなところが採用しないのかと疑問に思い、尊敬している数人の開業医に話してみたそうだが、誰も関心を持たなかった

(そりゃ、そうやって!)

そこで、せめて自分の身内を守るうえでも、多くの患者を治療してみようと、昼夜用太陽光線治療器を2台入手し治療を始めたところ、朝6時ころから夜10時ころまで、患者がわんさと押し寄せた。

カーボンの費用が掛かるようになった3年目から有料(1回35銭)にしたが、それでも大盛況!!

黒田氏は、こう決心していた。

医者に死を宣告された患者3名を確実に治癒できたら、上京して光線治療業を行おう!

何と5年目で、できてしまった。

ということで、彼は、昭和7年に東京日本橋の旅館の4畳半の1室を借りての「光線治療研究所」を開くに至った。

その3へ続く

[ad#ad2]

 

 

コウケントー光線治療の由来 その1


光線治療ことはじめ

いろいろな症例はこちらから!!

コウケントー…

こんなに地味にすごい家庭用医療器機を誰がどうやって考えたのだろう…(他にも光線治療機器は幾つかあるが、ここは一押しのコウケントーということで)

以前から関連の本は読んでいたが、誰が発明したかと言われると、微妙に分かりにくく、「由来はヨーロッパ、完成したのは日本人」といった、分かったような分からないような曖昧な答え方をしていた。

しかし、これ程の効果を熱弁する以上は、もっと正確に知っておくべきではないだろうか?

ということで、じっくりと調べてみた。

[ad#ad2]

スタート地点

光線治療と言ってもさかのぼれば、もともとは日光浴?!

18世紀中ごろにオーストリアで日光療養所が開設されたころがスタート。

日光療法に科学的根拠を与えたのは、“日光療法の父”と呼ばれているイギリスのダウンスとブラント。1877年に、太陽光には殺菌作用があることを発見した。次いで殺菌効果の作用波長は紫外線であることも明らかに。この頃より日光療法は飛躍的に発展する。

1903年、スイスの外科医ロリエ博士は、アルプスの山中に日光療養所を造り、結核治療に効果を挙げる。

と、ここまでが、本物の太陽光。

しかし、本物はいつでも出ている訳ではない。天気が悪かったり、夜だったりしたら使えないのである。

では、いったいどうすればいいのだ??

[ad#ad2]

人工太陽?!

1880年代、最初に明かりを発明したのは、かの有名なエジソン。しかし、この電球では、太陽光の代わりにはならず、治療には使えなかった。

その後、1893年!!

出典:Wikipedia

デンマークのニールス・フィンゼンという人物が、世界初のカーボンアーク灯(太陽光線と同じ連続スペクトルを強力に放つ器機)を考案。 彼は、不治の病と言われた「尋常性狼瘡」の病院を開院し、光線療法を用いて成果を収め、この功績を評価されノーベル医学生理学賞を受賞。(1903年)

さらに、ドイツのアドルフ・ウィンダスが、紫外線によって皮膚下で光合成されるビタミンD3の化学式を解き(1938年)、この功績によりノーベル化学賞を受賞。これを機に、広まったのが改良されたフィンゼン灯

この小型に改良されたものを、東京大学皮膚科医・土肥慶造博士が持ち帰り、皮膚科の治療に効果を上げた。全国でも使われた。

しかし紫外線を出すことだけに注目されていたフィンゼン灯は、水銀電気灯に取って代わられることになった。なぜなら水銀に電流を通して熱すれば、火花もなく手軽に多量の紫外線が得られたからだ。(残念ながらこの時点でフィンゼン灯は、本来発揮できるはずであった応用範囲を失って姿を消すことに…。)

ところが、太陽の力は紫外線だけではなかった。ここで、その他の太陽の発する光の種類を研究し、実験し、現在のコウケントーにまでつなげたのが「黒田保次郎氏」である。

なお、黒田保次郎氏の孫・黒田一明氏(医学博士)が2016年に取材を受けた記事にも簡単にいきさつが掲載されている。こちらから

興味深いことに、この黒田保次郎氏は医師でも学者でもない。もともとは農業、26歳からは米穀肥料の商人という医学とは全く無縁な環境の人物だ。いったい何が転機だったのか?

その2へ続く

[ad#ad2]